「までい」という言葉をご存じですか。東北の田舎では今も、「子供はまでいに育てろ」「食い物はまでいに食え」「仕事はまでいにしろ」と、年長者がわが子らを諭します。
標準語に置き換えると、「大切に」「手間ひまを惜しまず」「丁寧に、心を込めて」「時間をかけてじっくりと」「律義につつましく」というような表現になります。機能的な標準語とは違った、人を包み込む優しさが、たった一言の「までい」にはあります。この「までい」を村づくりの柱に据えてきたのが福島県の舘館村です。村の総合計画の基本理念である「スローライフ」は「までいライフ」と呼ばれ、子育て、環境、福祉、食、産業などの施策に生かされてきました。
子供たちが小川に入って魚採りをする。小遣いで山羊を飼っているおばあちゃんがいる。炭焼きをしている老夫婦の姿もある。4世代10人で暮らす大家族がいる。そこには、失われた日本の原風景がありました。
いま、住民が「までい」につくりあげてきた村は、原発事故によって人も動物も住めない場所になってしまいました。
「3.11」の東日本大震災に見舞われる前の飯舘村の日常をカメラに収めた福島県の管野千代子さん(全日写連会員)の作品が、フォトジャーナリズム月刊誌『DAYS JAPAN』」の7月号に掲載されています。管野さんにお話を伺いました。
四季を通じて安らぎを与えてくれる自然と「までい」な暮らしを原発事故は奪った。泣くにも泣けない村民の思いを写真の力で訴えたい
――飯館村を撮るようになったきっかけは?
「村は標高400メートル余りの高原地帯にあります。厳しい自然が四季折々の美しい変化をもたらし、懐かしい農村の生活様式が大事に受け継がれています。アマチュアのカメラマンにはいくらでもシャッターチャンスがあります。そして、何より惹かれるのは、村の人たちの「までい」な気持ちです。余所から来たひとたちを、温かく受け入れてくれます。魅力的で珍しい田舎の生活にカメラを向けると、他では怒鳴られたり、撮影を拒否されたりすることがありますが、飯舘村でそんなことは一度も経験したことがありません。こんなに笑顔に出会える場所も他にはないですね」
「20年ほど前に写真を始めて、いろんなものを撮ってきましたが、自分の年齢(67歳)もあるんで、あんまりあっち撮ったりこっち撮ったりでなく、近いところで何か一つテーマを決めてじっくりと、という気持ちが芽生えたときに、ちょうど飯舘村に出会いました」
――写真に写っている村の人たちは、どうしていますか。
「飯館村に行っても、線量計はピーピー鳴ります。村民のほとんどが村を離れて、仮設住宅などで暮らしています。山羊を飼っていたおばあさんは、泣く泣く手放し、いま埼玉にいます。特産の干し大根を作っていて、「大根シスターズ」というタイトルを付けた写真の5人のおばあちゃんたちもバラバラで、みんな一緒に顔を合わす機会はもうないかもしれない。小川で魚採りをする子供たちを大人たちが笑顔で見守っている。人間の幸せと地域の豊かさを象徴する、こんな光景をもう見ることはできないのです。ほんとに、悔しくて、悔しくて」